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国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museum) · ワシントンD.C. · 独立系ガイド

国立航空宇宙博物館の音声ガイド、
5スポット、無料。

ライトフライヤー号からコロンビアまで、飛行機と宇宙船を5機、録音を5本。ナショナル・モールの本館ではいま18の展示室が開いていて、そこにある機体もカプセルも宇宙服も、写真を1枚撮れば Chiaro が語ります。

Chiaro 制作。国立航空宇宙博物館とは関係ありません。

9:41

1903年ライトフライヤー号

国立航空宇宙博物館、ワシントンD.C.

0:00 3:14
スポット 1 / 5

5つのスポット · 音声 15 分

5つのスポット、ひとつのルート、
歩く順番のとおりに。

ジェファーソン・ドライブ側の入口を入ると、そこはもう Boeing Milestones of Flight Hall(飛行の節目を刻んだ機体を集めたホール)です。この国立航空宇宙博物館の音声ガイドは、そこから数歩の場所で始まり、上の階で終わります。まず奥へ進んで Gallery 107 で1903年のライトフライヤー号を見て、ホールに戻ってオレンジ色のベル X-1 と月着陸船 LM-2 へ。それから2階に上がり、Destination Moon(目的地は月)の Gallery 206 でアポロ11号のコロンビアを見て、2部屋東の Pioneers of Flight(飛行の先駆者たち)、Gallery 208 のスピリット・オブ・セントルイス号で締めくくります。ナレーションは12分、展示室間の移動は10分ほど。じっくり眺める時間を入れても1時間で回れます。

ここに載せたどの機体も、二つの経路で確かめました。一つは博物館自身のオンライン・コレクションの記録で、その展示情報の欄には置かれている展示室が書かれています。もう一つは、それとは別の独立した資料です。展示室番号は博物館のフロアマップによるもので、5点すべてが2026年9月25日の時点で展示中であることを確認しています。ただ、モールの本館はまだ改修の仕上げの途中で、この秋にはさらに2つの展示室が開く予定なので、展示が動くこともあります。館内の表示とこのページが食い違っていたら、表示のほうが正しいと考えてください。ひと言知らせていただければ、ページを直します。

スポット 1 / 5 · The Wright Brothers & The Invention of the Aerial Age(ライト兄弟と航空時代の幕開け)、Gallery 107、1階

1903年ライトフライヤー号

ウィルバー・ライトとオーヴィル・ライト(オハイオ州デイトン) · 1903年 · 木製の機体にモスリン張り、12馬力のライト製エンジン。翼幅12.3 m、全長6.4 m

注目ポイント

  • 橇(そり)。車輪はどこにもなく、2本の長い滑走用の橇が着陸装置の役目を果たしていました。
  • 主翼の前に突き出た昇降舵と、主翼の後ろにある2つのプロペラ。下の翼に載ったエンジンから、チェーンとスプロケットで回していました。
  • むき出しの布。塗料も目止めも一切なし。兄弟が残したとおりの、生成りのモスリンです。
書き起こし (3:14)

何よりも先に、少しだけ眺めてみてください。木と、淡い色のモスリン。車輪があるはずの場所には2本の長い橇。そして塗料は一滴も使われていません。布は生地のままの仕上げです。強い突風ひとつで壊れてしまいそうに見えますが、正直に言うと、実際にそうなりました。これは1903年12月17日、ノースカロライナ州キティホークで飛んだ、まさにその機体です。周りの展示室は、すべてこの1機を中心に組み立てられています。

ウィルバーとオーヴィルのライト兄弟は、オハイオ州デイトンで自転車店を営んでいました。1899年5月、ウィルバーはスミソニアン協会に手紙を書き、飛行について出版されたものがあれば何でも送ってほしいと頼みます。いまあなたが立っているこの建物を持つ、まさに同じ組織です。そこから4年、根気のいる仕事が続きました。1899年には凧、1900年、1901年、1902年には実物大のグライダー。そしてグライダーが計算の予想よりずっと浮かなかったとき、翼の形を試すために自前の小さな風洞まで作りました。1902年には、思いどおりに滑空できるようになっていました。残る課題は動力でした。

では、主翼の後ろを見てください。2つのプロペラは機体を引っぱるのではなく、押し出す向きについています。回していたのはチェーンで、その先には、店の機械工チャールズ・テイラーと一緒に作った12馬力のエンジンがありました。いちばん冴えていたのは、このプロペラの発想です。兄弟は羽根の一枚一枚を、横倒しにした翼として考えました。上向きではなく前向きに揚力を生む翼です。今度は正面を見てください。すべての前方に突き出したあの水平の面が昇降舵で、尾翼の水平安定板はまったくありません。機体を傾けるときは、左右の翼端を逆向きにねじりました。たわみ翼と呼ばれる工夫です。

12月14日、コイン投げに勝ったウィルバーが最初に挑みましたが、機体を壊してしまいます。3日後はオーヴィルの番でした。午前10時35分、彼は12秒間、36メートルを飛びました。その日は4回飛び、最後の1回ではウィルバーが59秒間空にとどまって、255メートルを進みました。ところが、皆で飛行の話をしているあいだに突風がフライヤー号をひっくり返し、砂の上を転がしてしまいます。この機体が飛ぶことは、二度とありませんでした。

その後の運命は、さらに奇妙と言っていいほどです。デイトンの小屋で木箱に入ったまま置かれ、1913年には洪水で11日間、水と泥に浸かりました。そして、ある確執の争点になります。スミソニアン協会の会長チャールズ・ウォルコットはライト兄弟の功績を認めず、前任者サミュエル・ラングレーが作って失敗に終わったエアロドロームのほうをたたえたのです。1928年、争いが決着しないまま、オーヴィルはフライヤー号をロンドンの科学博物館に貸し出しました。第二次世界大戦中は、コーシャム近郊の地下保管庫で過ごしています。よく聞く話とは違って、ロンドンの地下鉄ではありません。スミソニアンが1942年に撤回声明を出して、ようやく帰国が決まりました。引き渡されたのは1948年12月17日。キティホークからちょうど45年目の同じ日でした。

いま見えている布は1985年のもので、1903年の元の外皮の大きな切れ端を型紙にして裁たれました。元の布の一部は、はるか遠くまで旅をしています。1969年7月、左上の翼の布切れと左のプロペラの木片が、月着陸船イーグルに載って月面に降り立ったのです。キティホークの砂浜から静かの海まで、66年でした。

スポット 2 / 5 · Boeing Milestones of Flight Hall(飛行の節目を刻んだ機体のホール)、Gallery 100、1階

ベル X-1「グラマラス・グレニス」

ベル・エアクラフト社(ニューヨーク州バッファロー)、アメリカ陸軍航空軍とアメリカ航空諮問委員会(NACA)のために製作 · 1946年 · アルミニウムの胴体、鋼製の推進剤タンク、ロケットエンジン。翼幅8.5 m、全長9.4 m

注目ポイント

  • 機首。胴体全体が .50口径の機関銃弾の形をなぞっています。音速を超えても安定して飛ぶと、すでにわかっていた形です。
  • 翼。思ったよりずっと薄く、マッハ1近くで受ける力に耐えるためにそう作られました。
  • 尾翼の数字6062。機体番号46-062の末尾で、これが X-1 の1号機、つまり壁を破ったその1機です。
書き起こし (3:15)

小さくて、とにかくオレンジ色です。博物館自身の説明によれば「インターナショナル・オレンジ」。この大きさの機体だと、まるでおもちゃのように見えます。では、形を見てください。機首も胴体全体も、.50口径の機関銃弾をなぞっています。1940年代の技術者が、音より速く飛ぶことについて確実に知っていたことが一つだけありました。この形の弾丸は、音速を超えても安定しているということです。人間がそれに耐えられるかどうかは、まだ誰にもわかっていませんでした。

当時は多くの人が「音の壁」を信じていました。マッハ1の手前に見えない壁があって、空気が機体を揺さぶりばらばらにしてしまう、という考えです。X-1 は、それを確かめるために作られました。1944年、陸軍航空軍と、のちに NASA となる政府の研究機関 NACA は、音速に達し、それを超えられる有人の研究機の計画を始めます。製作したのはニューヨーク州バッファローのベル・エアクラフト社で、3機が作られました。これはその1号機、機体番号46-062。下4桁が尾翼に書かれています。

記録飛行のとき、この機体が滑走路から離陸したことは一度もありません。1947年10月14日、ボーイング B-29 爆撃機が爆弾倉に X-1 を抱えて30分かけて上昇し、そこで切り離しました。操縦していたのはチャック・イェーガー大尉。ウェストバージニア州出身の第二次世界大戦のエースで、空軍でいちばん経験豊富なテストパイロットです。それまでの試みでは、マッハ1に近づくと激しい振動に見舞われていました。技術者たちは直前に可変式の水平安定板を改良し、イェーガーがその角度をごく小刻みに変えられるようにしていました。今度の飛行は滑らかでした。X-1 の9回目の動力飛行で、マッハ計の針は0.965から1.06へ跳ね上がります。モハーヴェ砂漠の上空4万3,000フィート(約1万3,000メートル)で、時速700マイル(約1,100キロ)。ロケットの力で20秒間飛び、エンジンを止めて、干上がった湖底へ滑空で降りました。切り離しから着陸まで、14分間でした。

彼はこの機体に、妻の名前をとって「グラマラス・グレニス」と名づけていました。その日の本人の感想は、拍子抜けと言っていいほどのものでした。のちに彼は、本当の壁は空にあったのではなく、超音速飛行についての私たちの知識と経験のなかにあったのだ、と語っています。

翼を見てください。驚くほど薄いでしょう。弾丸のようなこの胴体の中に、設計者たちは推進剤のタンク2基、窒素の球形タンク12個、与圧された操縦席、そして500ポンド(約230キロ)を超える計測機器を詰め込みました。この機体は78回飛んでいます。1948年3月には、イェーガーがマッハ1.45まで引き上げました。1949年1月には、とうに求められなくなっていたことをやってのけます。自分の力で地上から離陸したのです。すべての X-1 がこれほど幸運だったわけではありません。3号機は1951年に地上で爆発し、後期型のうち2機も爆発で失われました。

1950年、この機体は B-29 の腹の下に吊られてワシントンまで運ばれ、スミソニアン協会に引き渡されました。空軍参謀総長のホイト・ヴァンデンバーグ大将は、ほんの数分のうちに亜音速の時代は歴史となり、超音速の時代が生まれた、と述べています。その数分の主役が、目の前のオレンジ色の飛行機です。

スポット 3 / 5 · Boeing Milestones of Flight Hall(飛行の節目を刻んだ機体のホール)、Gallery 100、1階

月着陸船 LM-2

グラマン・エアクラフト・エンジニアリング社(ニューヨーク州ベスページ)、NASA のために製作 · 1966年製造、アポロ11号のイーグルの姿に再現 · アルミニウムとチタン、アルミ蒸着マイラーとカプトンの断熱ブランケット。差し渡し6.54 m

注目ポイント

  • 2段の継ぎ目。上は灰色の乗員キャビンで、ここだけが月面から再び飛び立ちます。下は金色の着陸段で、月に残されます。
  • 金と銀の覆い。金属板ではなく、アルミ蒸着マイラーとカプトンのブランケットです。
  • 前の脚のはしごと、着陸段の星条旗。どちらもイーグルと同じです。
書き起こし (2:53)

金色の箔に、ひょろりとした脚。そのてっぺんに載った灰色のキャビンは、組み立てたというより折り紙で折ったように見えます。月面のイーグルの写真を思い出したなら、まさにそれが狙いです。ただ、横のラベルはひとつのひねりを正直に書いています。この月着陸船は、宇宙へ行ったことが一度もありません。

作ったのはロングアイランドのベスページにあるグラマン社です。1966年の終わりには、この機体と双子の LM-1 はほぼ完成していました。地球周回軌道での無人試験飛行に使うはずだったのです。そこへ1967年1月、アポロ1号の痛ましい火災が起き、宇宙飛行士を乗せる宇宙船の安全基準はすべて書き直されました。NASA は、ほぼ出来上がっていた2機の着陸船を作り直す代わりに、無人の任務だけに使うことにします。LM-1 は1968年1月にアポロ5号で飛び、十分な成果を上げたため、2回目の試験は必要ないと判断されました。LM-2 の射場への引き渡しは延期され、やがて取りやめになります。

そこで、この機体は地上で働くことになりました。1968年4月、無人のアポロ6号の打ち上げで、サターンV ロケットが上下に激しく振動しうることがわかります。技術者が「ポゴ」と呼んだ現象です。5月、LM-2 はそれを調べるために地上に組まれた試験装置の一部になりました。その次は、何度も何度も落とされました。電子機器や機構が、衝撃の大きい着地にも耐えられることを証明するためです。5回目にして最後の落下試験は1969年5月7日。ニール・アームストロングとバズ・オルドリンが月面を歩く、3か月足らず前のことでした。

次は、日本への寄り道です。1970年の大阪万博(EXPO'70)で、アメリカ館は本物の月着陸船を展示したいと考えました。けれど本物のイーグルは使えません。その下半分は、いまも静かの海に置かれたままだからです。そこでグラマン社は LM-2 のキャビンを試験用の着陸段と組み合わせ、たったいま着地したばかりのように見せる装いを施しました。万博のあとはスミソニアン協会に来て、1976年7月から2015年の終わりまで、この建物の東の端で、月面を模した地面の上に立っていました。

では、上と下の2つの部分を見てください。上にあるのが上昇段で、専用のロケットエンジンを持つ与圧キャビンです。月を離れるはずだったのは、この部分だけでした。その下が着陸段で、脚と着陸用エンジン、月面での実験装置を備え、アルミ蒸着マイラーとカプトンでできた金と銀のブランケットに包まれています。博物館はこの機体をホールに移すとき、いったん分解して、ほぼすべての細部をイーグルに合わせようとしました。取り外した材料は、切れ端ひとつまで写真に撮り、記録し、保管しています。前の脚のはしごも、イーグルと同じようにちゃんとあります。

1969年から1972年にかけて、これと同じ型の月着陸船6機が、12人のアメリカ人宇宙飛行士を月面に降ろしました。この1機は一度も飛んでいません。だからこそ、いまここで、あなたがすぐそばに立って見られるのです。

スポット 4 / 5 · Destination Moon(目的地は月)、Gallery 206、2階

アポロ11号 司令船「コロンビア」

ノースアメリカン・ロックウェル社、NASA のために製作 · 1969年 · アルミニウム合金、ステンレス鋼、チタン。底面の直径3.91 m

注目ポイント

  • 焦げて筋の走った外板。1969年7月24日に大気圏を抜けて戻ってきたときの姿を、保存修復の担当者たちがそのまま守っています。
  • 大きさ。底面の直径は4メートルに満たず、それでも8日間の飛行のほとんどを、乗組員はここで暮らしました。
  • 同じ展示室にある、ニール・アームストロングのアポロ11号の宇宙服。
書き起こし (3:09)

まずは、ぐるりと一周してみてください。外側は焦げて筋が走り、銀色を想像していたところが茶色になっています。博物館の保存修復の担当者たちは、苦労してこの状態をそのまま保ってきました。1969年7月24日に地球へ帰ってきたとき、コロンビアはこういう姿だったからです。底面の直径は3.91メートル。8日間のほとんどのあいだ、ここが3人の男の住まいでした。

3人が出発したのは7月16日、ケープケネディから、サターンV ロケットのてっぺんに乗ってのことでした。ニール・アームストロング、バズ・オルドリン、マイケル・コリンズです。コロンビアは、宇宙船を構成する3つの部分のひとつでした。後ろの機械船には主エンジンと物資が積まれ、月着陸船イーグルが2人を月面まで運びました。3つのうち、帰ってきたのはこれだけです。ほかの2人が月面を歩くあいだ、ひとりで月の周りを回っていたコリンズは、耳を傾ける世界に向けて、このキャビンを「ぼくらの楽しいわが家」と紹介しました。

その名前に首をかしげていたのも、コリンズでした。NASA の広報責任者ジュリアン・シーアが電話のついでにコロンビアという名前を口にしたとき、コリンズは少し大げさだと感じたのです。それでも彼は考えを改めます。ひとつには、ジュール・ヴェルヌの小説『地球から月へ』で旅人たちを月へ撃ち出す巨大な大砲、コロンビアードを思わせる名前だったからでした。

いちばん面白い話は、内側の壁にあります。スミソニアン協会がキャビンを細かく3次元スキャンしたとき、学芸員たちは40年以上も人目に触れていなかった書き込みを見つけました。航法ステーションの横には、ヒューストンから伝えられた数字の列。コリンズが望遠鏡で月面のイーグルを探しながら受け取った座標で、結局見つけることはできませんでした。ロッカー R5 にも手書きの書き込みがあります。このロッカーは使用済みの尿袋入れに転用されていて、どう見ても開けずにおくべき場所でした。そして手描きの小さなカレンダー。飛行の日付が一日ずつ消され、着水の日である7月24日だけが残っています。

それから、歴史家たちが昔から知っていた書き込みもあります。回収艦の空母ホーネットでハワイへ向かう途中、コリンズはもう一度中にもぐり込み、機器区画のパネルにこう書きました。「宇宙船107号、またの名をアポロ11号、またの名をコロンビア。生産ラインから出てきた最高の船。神の祝福を」。

スミソニアンに来る前、NASA はこの司令船を全米巡回に連れ出しました。49の州都に、コロンビア特別区とアンカレッジを加えて回り、移動距離は2万6,000マイル(約4万2,000キロ)近く。ハワイとアラスカへはそれぞれ1か月近くを海の上で過ごしています。見に来た人はおよそ325万人で、最も多くの人が集まったのはハワイの13万5,000人でした。最後にこの展示室へ移るときは、バージニア州のウドバー・ヘイジー・センターから30マイル(約48キロ)の道のりを大型トレーラーで運ばれました。保護材を何重にも巻かれたその姿は、巨大なハーシーズのキスチョコのようだったそうです。

この見学を下の階から始めたのなら、最後にもうひとつのつながりを。1903年のライトフライヤー号のかけらは、この飛行でニール・アームストロングの私物袋に入って月へ行き、このカプセルの中で太平洋に着水したのです。

スポット 5 / 5 · Barron Hilton Pioneers of Flight(飛行の先駆者たち)、Gallery 208、2階

スピリット・オブ・セントルイス号

ライアン航空(サンディエゴ)。設計はドナルド・A・ホール、チャールズ・A・リンドバーグのために · 1927年 · 木製の主翼、溶接鋼管の胴体、アルミ色のドープを塗った綿布張り。翼幅14 m、全長8.4 m

注目ポイント

  • 風防がないこと。本来あるべき場所には燃料タンクがあり、リンドバーグは左側の小さな潜望鏡で前方を見ていました。
  • 機首に描かれた国旗。1927〜28年の親善飛行で訪れた国ごとに1つずつあります。プエルトリコの旗は間違いで、本当は縞が5本のはずです。
  • 方向舵。左側には翼のついた R の文字、右側は何もない当て布。パリで記念品目当ての誰かが布を切り取っていった跡です。
  • 開いたままの扉。リンドバーグ本人の希望で、そのままにしてあります。
書き起こし (2:48)

機体の正面を見て、パイロットがどこから外を見ていたのか探してみてください。見つからないはずです。そして、本人にも見えませんでした。風防がないのです。燃料タンクが操縦席の前にあり、チャールズ・リンドバーグは大西洋を越えるあいだ、左側の小さな潜望鏡で前を見るか、機体を横に振って側面の窓からのぞくしかありませんでした。

1919年、レイモン・オルテーグという人物が、ニューヨークとパリのあいだを無着陸で飛んだ最初のパイロットに2万5,000ドルを出すと発表しました。リンドバーグは曲芸飛行の巡業あがりで、セントルイスとシカゴを結ぶ航空郵便のパイロットになっていました。1927年2月、セントルイスの支援者グループの資金で、彼はサンディエゴのライアン航空に飛行機を注文します。完成までわずか2か月。もとは普通のライアン M-2 でしたが、燃料を積むために引き伸ばされました。主翼は10フィート(約3メートル)、胴体は2フィート(約60センチ)長くなり、エンジンは前へ、操縦席は後ろへずらされました。タンクが重心の位置に来て、パイロットはその後ろ、墜落したときにより安全な場所に座ることになったのです。

彼はまずこの機体で東のニューヨークへ飛び、途中セントルイスに1度だけ降りて、21時間40分の大陸横断記録を打ち立てました。そして1927年5月20日の朝、たったひとりでパリへ飛び立ちます。33時間半、3,610マイル(約5,800キロ)を飛んでル・ブルジェに降りると、10万人の群衆が彼を待っていました。どうやってやり遂げたのかは、操縦席の内側に残る鉛筆の書き込みが教えてくれます。各タンクから使った燃料を数え、機体の釣り合いを保つためにタンクを切り替えていたのです。

パリの群衆は記念品を欲しがり、実際に持っていきました。方向舵を見てください。左側には翼のついた R の文字があります。右側には何もない当て布があるだけです。誰かが布を切り取ってしまったからです。

今度は機首を見てください。並んだ国旗は、そのあとの親善飛行で訪れた国々です。ワシントンからメキシコシティへ、さらに中米、コロンビア、ベネズエラ、カリブ海へと回りました。ちなみに、プエルトリコの旗は間違っています。本当は縞が5本のはずなのです。胴体の下にある2本の筒は、この親善飛行のために取り付けられたもので、夜に着陸するとき地面が見えるよう照明弾を落とすためのものでした。そしてエンジンカウルは署名で埋め尽くされています。行く先々で機体の番をした警備員や整備士たちが、鉛筆で書いたり、ペンナイフで刻んだりしたものです。

カルビン・クーリッジ大統領はリンドバーグを、時間と空間の壁をまたひとつ打ち破った平和と善意の使者だと称えました。博物館の見立てでは、航空の世界でこれほど世界中を沸かせた出来事は、アポロ11号まで二度とありませんでした。その司令船を、あなたはいま見てきたところです。1928年4月30日、リンドバーグはスピリット号で最後の飛行をします。セントルイスからワシントンへ飛び、そのままスミソニアン協会に寄贈しました。扉は開いています。彼がそう頼んだから、ずっとそのままなのです。

独立系ガイド · Chiaro

国立航空宇宙博物館のどんなものにも、Chiaro を向けてください。

リンドバーグの飛行機が5つ目のスポットですが、ここで天井から吊られているものの大半は、このリストに入っていません。ジョン・グレンのカプセル「フレンドシップ7」も、アメリア・イアハートの赤いベガも、周りの誰も名前を言えないプロペラも、写真に撮ればアプリがそれが何かを見分け、その物語を話し、あなたが声に出した質問にもその場で答えます。

イェーガーはどうやってマッハ1を超えたの?この着陸船は宇宙を飛んだことがある?どうして風防がないの?

出発前に

01

アクセス

650 Jefferson Drive SW, Washington, DC 20560。ナショナル・モールに面し、国立アメリカ・インディアン博物館とハーシュホーン博物館のあいだにあります。入館は全員、モール側のジェファーソン・ドライブ(Jefferson Drive)の入口から。入口ホールの東西にスロープがあり、段差なしで入れます。出口は館内マップでインディペンデンス・アベニュー側に示されています。タクシーや配車サービスを使うときは、運転手に 601 Independence Ave SW を伝えるよう博物館が勧めています。

博物館が案内している地下鉄(メトロレール)の駅はランファン・プラザ駅の A 出口で、ブルー、イエロー、オレンジ、シルバー、グリーンの各線が通っています。そこからは歩いて約10分とのことです。バージニア鉄道エクスプレス(VRE)もランファン・プラザに停まり、MARC とアムトラックはユニオン駅に着きます。博物館の駐車場はありませんが、ジェファーソン・ドライブ側の入口のそばに駐輪ラックがあります。

02

チケット

  • 入館は無料ですが、無料の日時指定入館パスがないと、子どもも含めて誰も入れません。1人で9枚まで予約できます。各月のパスは、その2か月前の月の1日、米国東部時間の正午にオンラインで公開されます。たとえば4月分のパスは2月1日に出ます。
  • パスに書かれた時刻は、入館できるいちばん早い時刻で、逃したら無効になる枠ではありません。その日のうちならいつ着いてもよく、好きなだけいられます。ただし一度外に出るとそこで見学は終わりで、もう一度入るには別のパスが必要です。
  • 毎日午前10時から午後5時30分まで開館しています。休館は年に1日だけ、12月25日です。
  • パスの読み取りと保安検査に約25分みておきましょう。毎時ちょうどではなく、少し過ぎてから着くほうが、列は短いことが多いです。
  • 自撮り棒と三脚は持ち込めません。食べ物は密封されていれば持ち込めますが、展示室で食べることはできません。地下階の Mars Café は午前11時から午後5時まで営業しています。
  • エノラ・ゲイやスペースシャトル・ディスカバリーがあるバージニア州シャンティリーのウドバー・ヘイジー・センターは、車で40〜90分離れた別の建物で、2つを結ぶシャトルバスはありません。
公式チケット →
03

公式音声ガイド

博物館自身が用意しているガイドは、ボランティアのドーセントが案内する無料のハイライトツアーです。その日の開始時刻は、館内マップと一緒に1階のウェルカムセンターで確かめられます。このページの5本の録音は、再生ボタンを押せばいつでも流れます。館内のほかの機体やカプセルについて知りたくなったら、Chiaro アプリに聞いてください。

公式サイト →

よくある質問

国立航空宇宙博物館の無料音声ガイドはありますか?

あります。ライトフライヤー号、X-1、月着陸船、コロンビア、リンドバーグの飛行機には、それぞれ上に無料の録音があり、どのスマートフォンのブラウザでも再生でき、下には台本も載っています。インストールするものはありません。開いている18の展示室にあるそれ以外のものは、Chiaro の担当です。アプリで機体の写真を撮れば、名前を教え、解説します。

国立航空宇宙博物館の公式音声ガイドはいくらですか?

博物館がその場で用意しているのはボランティアのドーセントによる案内で、料金はかかりません。ハイライトツアーは無料で、その日の時刻は1階のウェルカムセンターに掲示されています。入館も、オンラインで予約する日時指定パスがあれば無料です。そして、このページの5本の録音もお金はかかりません。

国立航空宇宙博物館のライトフライヤー号はどこにありますか?

1階の The Wright Brothers & The Invention of the Aerial Age(ライト兄弟と航空時代の幕開け)、Gallery 107 です。ジェファーソン・ドライブから入ってすぐの Boeing Milestones of Flight Hall に面しています。レプリカではなく1903年の実機そのものです。布は1985年に張り替えられましたが、1903年の外皮の大きな切れ端から型を取って裁たれています。

国立航空宇宙博物館に休館日はありますか?

年に1日だけ、12月25日です。それ以外は毎日午前10時から午後5時30分まで開いていますが、どの日も無料の日時指定入館パスが必要なので、何よりもまずパスの空きを確かめてください。

国立航空宇宙博物館に入るのにチケットは必要ですか?

有料のチケットはいりません。ただしワシントンの本館には、年齢にかかわらず全員が無料の日時指定入館パスを持っている必要があります。1人で9枚まで予約できます。新しいパスは毎月1日の米国東部時間正午に、2か月先の分が公開されます。こまめに確認していると、あとから追加の枠が出てくることもあります。

ウドバー・ヘイジー・センターは同じ博物館ですか?

博物館は同じで、建物が別です。スティーブン・F・ウドバー・ヘイジー・センターはバージニア州シャンティリーにあり、エノラ・ゲイやスペースシャトル・ディスカバリーはそちらで展示されています。2つを結ぶシャトルバスはなく、博物館によれば車で40〜90分、公共交通機関では90〜120分かかります。このガイドが扱うのはモールの本館だけです。

ほかの音声ガイド

Chiaro 制作。国立航空宇宙博物館とは関係ありません。