国立自然史博物館(National Museum of Natural History) · ワシントン · 独立系ガイド
スミソニアン国立自然史博物館の音声ガイド、
5つのスポット、無料。
ゾウから始まる5つの解説を、ブラウザでそのまま再生できます。館が抱える標本は1億4800万点を超えますが、いま目の前にあるのがどれであっても、写真を1枚撮れば Chiaro がその物語を語ります。
Chiaro 制作。スミソニアン国立自然史博物館とは関係ありません。
アフリカゾウのヘンリー
スミソニアン国立自然史博物館、ワシントン
5つのスポット · 音声 14 分
5つのスポット、ひとつのルート、
歩く順番のとおりに。
このスミソニアン国立自然史博物館の音声ガイドは、ドームの下、ロタンダに立つアフリカゾウのヘンリーから始まります。続いてサント・オーシャン・ホールでダイオウイカに会い、化石ホール「ディープ・タイム」ではトリケラトプスを踏みつけるT・レックスの前へ。そこから2階の地質・宝石・鉱物ホールに上がって、ナポレオンが2番目の妻に贈ったトルコ石のダイアデムを見たら、最後はその隣の部屋のホープダイヤモンドで締めくくります。再生ボタンを5回押せば、ナレーションは合わせて11分。階段の上り下りとケースごとのひと休みを入れて、1時間みておいてください。
このページの事実は、どれも二度ずつ確かめました。一度はスミソニアン自身の資料、つまり館の展示ページ、宝石の記録をまとめた GeoGallery、そして『スミソニアン』誌と。もう一度は館の外の参考資料とです。ここで名前を挙げた展示ホールは、すべて2026年9月25日に確認しています。それでも標本は移されたり、手入れされたり、研究室に送られたりします。最後に頼るべきはケースの横のラベルです。このページとラベルの内容が食い違っていたらラベルを信じて、私たちに知らせてください。
颐园居、CC BY 4.0、Wikimedia Commons より. 写真: 颐园居
スポット 1 / 5 · ロタンダ(Rotunda)、1階
アフリカゾウのヘンリー
1955年にアンゴラで仕留められたアフリカゾウ(サバンナゾウ)の雄。スミソニアンの剥製師ウィリアム・ブラウンとノーマン・ディートンが剥製に仕上げた · 1955年に捕獲、1959年に公開 · 剥製(皮革)、高さ13フィート(約4メートル)、重さ11トン
注目ポイント
- ポーズ。鼻を上げ、耳を大きく広げています。剥製師は生きたゾウの動きを観察し、このゾウを早足で歩く姿に仕立てました。
- 皮膚のしわ。ほこりがたまりやすい場所で、2015年には、手で色を合わせた蜜蝋でひび割れが埋められました。
- 台座のまわり。水場に集まるゾウの小さなジオラマと、米国魚類野生生物局が押収した違法な象牙が並んでいます。
書き起こし (2:39)
台座のそばに立って、見上げてください。鼻は高く持ち上がり、耳はいっぱいまで広がって、体全体がいまにも一歩を踏み出そうと前に傾いているように見えます。これは狙いどおりの姿です。1950年代にスミソニアンの主任剥製師を務めたウィリアム・ブラウンは、この剥製を組み立てる前に、ゾウが実際にどう動くのかをじっくり観察しました。そして鼻を上げ、耳を扇のように広げて早足で歩く姿に仕上げたのです。重さは11トン、高さは13フィート、約4メートル。1959年からずっと、このロタンダで来館者が最初に目にするのが彼です。
このゾウは、アフリカゾウの雄でした。ハンガリー生まれの技師で、大物猟のハンターでもあったヨーゼフ・フェニケヴィが足跡を追い、1955年11月13日、アンゴラ南東部のクアンド川流域で仕留めました。フェニケヴィはゾウの寸法を測ってスケッチにまとめ、いまもスミソニアンの資料室に残るそのスケッチが、剥製師たちの作業の手本になりました。
実際にワシントンへ届いたのは皮で、それだけで2トンもありました。なめし職人が皮を削っては水に浸し、加工できるほど薄くしなやかになるまで手を入れ、それをブラウンと同僚のノーマン・ディートンが剥製に仕立てました。完成したゾウは1959年3月6日、ロタンダの中央という特等席でお披露目されます。その時点で、世界のどの博物館に展示されている陸上哺乳類よりも大きな一頭でした。皮を寄贈した人物にちなんで「フェニケヴィのゾウ」と呼ばれることもありますが、博物館自身も含めて、ほとんど誰もが彼をヘンリーと呼んでいます。
では、皮膚を近くで見てください。深いしわは、まさにほこりがたまる場所です。なにしろ毎年400万人以上が、この前を通り過ぎていくのですから。2015年にはチームが鼻先から尾までヘンリーをきれいにし、ひび割れをひとつ残らず、手で色を合わせた蜜蝋で埋めました。いまあなたが立っているそばの台座もそのときに作られたもので、側面には案内デスクが組み込まれています。2025年1月には、そのときと同じ修復担当者、彫刻家で剥製師でもあるポール・ライマーが、少人数のチームを連れて戻り、2晩かけて作業しました。はしごやリフトの上からヘンリーの背中のほこりを吹き飛ばす係と、下で掃除機を構えてそれを吸い取る係に分かれ、仕上げに柔らかいブラシで、しわのひだをひとつずつ払っていったのです。
先へ進む前に、台座のまわりを一周してみてください。水場で水を飲むゾウたちの小さなジオラマ、ゾウとその祖先たちの系統樹、そして米国魚類野生生物局が押収した違法な象牙のケースがあります。博物館は自らヘンリーを世界最大のゾウの剥製と呼んでいます。そして前回の清掃のあと、70年近く展示されてきた皮について、ライマーが下した評価はごく短いものでした。「状態はきわめて良好」。
Donald E. Hurlbert, Smithsonian Institution、パブリックドメイン、Wikimedia Commons より. 写真: Donald E. Hurlbert, Smithsonian Institution
スポット 2 / 5 · サント・オーシャン・ホール(Sant Ocean Hall)、1階
ダイオウイカの雌
ダイオウイカ(Architeuthis dux)の雌。2005年にスペイン沖で漁師の網にかかった個体 · 2005年に捕獲、2008年から展示 · 液浸標本。現在の全長25フィート(7.6メートル)、捕獲時は36フィート
注目ポイント
- 腕よりはるかに長い2本の触腕。捕獲されたときの全長36フィートのうち、22フィートをこの2本が占めていました。
- 触腕の先に集まった吸盤。ダイオウイカはこれを、獲物にも天敵にも使います。
- 雄の標本。同じ便でスペインから届きましたが、ひと回り小さいのは、ダイオウイカでは雌のほうが雄より大きく育つからです。
書き起こし (2:51)
目の前にあるものの大部分は、腕と触腕です。胴体は片方の端にある白っぽい筒で、そこからすべてが長く伸びています。まず腕があり、その先に、吸盤の集まった先端を持つ、ずっと長い2本の触腕が続きます。水から引き揚げられたとき、彼女の全長は36フィート、約11メートルあり、そのうち22フィートが2本の触腕でした。その後、保存液のせいで縮んで、いまは約25フィート、7.5メートルです。それでもこのホールでいちばん人だかりができるのは、やはり彼女の前です。
彼女がここにいるのは、2005年、博物館が新しい海洋ホールを作っていて、その中心にダイオウイカを据えたいと考えたからです。当時、生きた姿がちらりとでも目撃された例は、ほんの数えるほど。科学者が知っていたことのほとんどは、マッコウクジラの胃から出てきた断片や、浜辺で腐りかけた死骸から得たものでした。スミソニアンが持っていた標本もそのひとつで、1980年代にマサチューセッツ州のプラム島に打ち上げられた、傷だらけの雌でした。動物学者のクライド・ローパーは、それを自ら車を運転してワシントンまで運びました。途中で警官に止められましたが、同乗している「乗客」の話を聞かせて、違反切符を切られずにすんだそうです。
そこへスペインから知らせが届きます。ある漁師が網にかかったダイオウイカの雌を見つけ、スペインの海洋研究グループが、数日前に捕まったひと回り小さな雄と一緒に、彼女を送ってくれることになったのです。問題は、大西洋をどう越えるかでした。2体とも数百ガロンのホルマリンに浸かっていて、そんなものを引き受ける航空会社はありません。博物館の誰かが冗談半分に、映画『フリー・ウィリー』のシャチだって貨物機で運ばれたんだから、海軍に頼んでみたらどうだ、と言いました。そして本当に、誰かが頼んだのです。スペインの科学者アンヘル・ゲラは、アストゥリアスから海軍基地まで7時間かけて2体を車で運びましたが、着いたのは7月4日。アメリカの独立記念日で基地は閉まっていて、彼はイカと一緒に駐車場で一夜を明かしました。翌朝、2体は空軍の貨物機で飛び立ちます。積み荷には「VIS」というあだ名がついていました。ベリー・インポータント・スクイッド、つまり「超重要イカ」の略です。
2008年9月にホールが開館する数週間前、チームはホルマリンを抜き、2体を新しい試験的な保存液に移しました。最初の見学者は、ジョージ・W・ブッシュ大統領でした。プロジェクトの責任者によれば、博物館が「カラマリ作戦」と名づけたこの計画を、大統領はこれまで聞いた中でいちばん愉快な話だと思ったそうです。
世界中の海にいるダイオウイカは、すべて彼女と同じひとつの種、アーキテウティス・ドゥクスに属しています。生きていたころの彼女の目はディナー皿ほどの大きさで、動物界で最大でした。400フィート近く先から迫ってくるマッコウクジラを見つけるのに役立つ目です。そして、ずっと気になっていた人のために。ローパーがはっきり答えを出しています。ダイオウイカの味は、とても食べられないほど苦いそうです。
Ryan Schwark、CC0、Wikimedia Commons より. 写真: Ryan Schwark
スポット 3 / 5 · デイヴィッド・H・コーク化石ホール「ディープ・タイム」(David H. Koch Hall of Fossils – Deep Time)、1階
ネーションズ・T・レックス
モンタナ州で1988年にキャシー・ワンケルが発見したティラノサウルス・レックス。アメリカ陸軍工兵隊から貸与 · 約6600万年前。2019年に組み立て · 化石骨格とキャスト(複製)部分。全長約40フィート、高さ15フィート
注目ポイント
- 前肢。短いけれど、筋肉がついていた部分は太くなっています。前肢が本当はどれほど短いのかを初めて示せるほど、骨がそろった骨格でした。
- 片足でトリケラトプスを押さえつけ、顎でその頭を首からもぎ取ろうとしている姿。この2頭を真っ向から戦わせた博物館は、それまでありませんでした。
- トリケラトプスの折れた角と、ひびの入った肋骨。襲撃の激しさを見せるために加えられたものです。
書き起こし (2:40)
全体のバランスを見てください。胴体は地面と水平に構え、尾はおもりとして後ろへまっすぐ伸び、片足はトリケラトプスの脇腹を踏みつけ、顎は獲物の頭を首から引きはがそうとしています。鼻先から尾まで約40フィート、高さは15フィート。このホール全体が、この骨格を中心に作り直されました。
1988年のレイバー・デーの週末、牧場を営むキャシー・ワンケルは、モンタナ州のフォートペック貯水池の近くで家族と化石探しをしていて、夏の日差しでコンクリートのように固く焼けた地面から、化石が突き出しているのを見つけました。彼女と夫のトムは、肩甲骨と前肢の一部を掘り出し、ボーズマンのロッキー博物館に持ち込みます。古生物学者のジャック・ホーナーが告げた正体は、ティラノサウルス・レックスでした。骨格はおよそ85パーセントがそろっていて、それまで誰も見たことのないものまで含まれていました。T・レックスの、完全な前肢です。
では、あらためてその前肢を見てください。短いことで有名ですが、それがどれほど短いのかを初めてはっきり示せたのが、この骨格でした。ただし骨には筋肉がつく大きな面があるので、力は強かったはずです。骨の内部にある成長線を木の年輪のように読むと、この個体は死んだとき18歳ほどだったことがわかります。
化石が見つかった土地はアメリカ陸軍工兵隊のもので、だからこの骨格は連邦政府の財産です。2013年、工兵隊はこれを50年間スミソニアンに貸し出すことにしました。ところがその秋の政府機関閉鎖で、骨格はモンタナで足止めされます。ようやく届いたのは2014年4月。7トンの化石が、フェデックスのトラックの荷台に積まれて、2,000マイルの道のりを旅してきました。その後、骨格はオンタリオ州のリサーチ・キャスティング・インターナショナルに送られ、骨ひとつひとつに、ボルトを外せる専用の金属製の受け台が作られました。いまでも科学者が骨を1本取り外して研究できるようにするためです。
本物の頭骨と肋骨の大半はもろすぎて展示できません。ですから、目の前にあるもののうち元の骨は半分を少し超える程度で、残りは丁寧な復元です。トリケラトプスもキャストで、館自身が持つトリケラトプス、愛称「ハッチャー」の複製です。ハッチャーとスミソニアンの歴史は1905年にさかのぼります。デザイナーたちはこの複製に折れた角と、ひびの入った肋骨を2本ほど加えました。館の恐竜担当キュレーター、マシュー・カラーノが求めたのは、まさにこれでした。それまで誰も試したことのない、2頭が正面からぶつかり合うポーズです。
2019年6月8日、ホールはこの2頭を囲んで再び開きました。そしてこのT・レックスは、科学にもうひとつ足跡を残しています。メアリー・シュバイツァーがその骨を調べたところ、6600万年前の骨格の中に、血液に由来する鉄の一種、ヘムがまだ残っていたのです。
Cliff from Arlington, Virginia, USA、CC BY 2.0、Wikimedia Commons より. 写真: Cliff from Arlington, Virginia, USA
スポット 4 / 5 · ジャネット・アネンバーグ・フッカー地質・宝石・鉱物ホール(Janet Annenberg Hooker Hall of Geology, Gems, and Minerals)、2階
マリー・ルイーズのダイアデム
パリの宝石商エティエンヌ・ニト父子商会 · 1810年。トルコ石のはめ込みは1956〜1962年 · 銀と金、オールドマインカットのダイヤモンド1,006個(700カラット)、ペルシャ産トルコ石79個(540カラット)
注目ポイント
- 空色のトルコ石79個。どれも、もとはエメラルドのために作られた石座に収まっています。
- 正面中央の四角い石。このダイアデムでいちばん大きかった、約12カラットのスクエアカットのエメラルドの石座を埋めています。
- 渦巻き、パルメット、メダイヨンの文様。すべてナポレオン時代のパリの職人による手仕事です。
書き起こし (2:36)
ここにあるものはどれも、はじめから一揃いだったように見えます。銀と金の渦巻き模様、1,000個を超えるダイヤモンドのきらめき、そしてぐるりと並んだ、やわらかな空色の石。けれど、この中でもともとの一揃いになかったのが、その青なのです。このダイアデムが作られたとき、79の石座にはひとつ残らず、コロンビア産のエメラルドがはまっていました。
作ったのはパリの宮廷御用達の宝石商、エティエンヌ・ニト父子商会で、1810年、ナポレオンの2番目の妻となるオーストリアのマリー・ルイーズのためでした。2人はその年に結婚し、このダイアデムは結婚の贈り物の一部でした。エメラルドとダイヤモンドでそろえた一式で、このダイアデムのほかに、ネックレス、イヤリング、櫛、ベルトのバックルがありました。フランス王家に嫁ぐ花嫁は、故郷のものを何ひとつ持たずにやって来るのがしきたりだったので、マリー・ルイーズには宝飾品をいちから揃える必要があったのです。ナポレオンの失脚後にフランスを去るとき、彼女はこの一式を持っていきました。国家のものではなく、彼女自身の財産だったからです。
彼女はそれをハプスブルク家の叔母に遺し、一式はその後1世紀にわたって一族に受け継がれました。1952年、一族の大公のひとりがダイアデムとバックルをパリの宝石商ヴァン クリーフ&アーペルに売り、同社はそれをニューヨーク店のショーウィンドーに飾りました。トルコ石がはまっている理由は、このあとの出来事にあります。1954年5月から1956年6月にかけて、同社はエメラルドを外し、ひとつずつ別の宝飾品に仕立てて売ったのです。1955年の新聞広告は、ナポレオンゆかりの歴史的なダイアデムのエメラルドを一般の客に売り出し、同社の役員はのちに、24時間のうちに売り切れたと語っています。
1962年より前のどこかの時点で、空になった石座にはペルシャ産のトルコ石が、合わせて540カラット分はめ込まれました。長年にわたって国立宝石コレクションを管理してきたジェフリー・ポストは、トルコ石が理にかなった選択だった理由を説明しています。磨けば艶が出るほど硬く、それでいて、ほかの石のために作られた穴に合わせて削れるほどやわらかいからです。名前そのものにも交易路が刻まれています。ターコイズという名は、フランス語で「トルコの」を意味する言葉から来ていて、ペルシャのトルコ石は、トルコを経由してヨーロッパへ運ばれていたのです。
1962年、ダイアデムはルーヴル美術館の展覧会のためにパリへ戻り、同じ一式のネックレスとイヤリングと再会しました。その9年後、シリアル食品で財を成した一族の相続人マージョリー・メリウェザー・ポストがこれを買い取ってスミソニアンに贈り、以来ずっとワシントンにあります。ダイアデムのエメラルドは1950年代の宝石箱のあちこちに散らばってしまいましたが、結婚の一式のうち2点は、自分のエメラルドを失わずにすみました。ルーヴルに行ったことがあれば、見たことがあるかもしれません。あのネックレスとイヤリングは、いまも緑のままです。
dbking、CC BY 2.0、Wikimedia Commons より. 写真: dbking
スポット 5 / 5 · ジャネット・アネンバーグ・フッカー地質・宝石・鉱物ホール、2階、ハリー・ウィンストン・ギャラリー(Harry Winston Gallery)
ホープダイヤモンド
約11億年前に地球の奥深くで生まれ、インドで採掘されたのち、1792年以降にヨーロッパでカットし直された石 · 1666年から記録に登場。1958年に博物館へ寄贈 · ブルーダイヤモンド、45.52カラット。16個の白いダイヤモンドに囲まれたプラチナの台座
注目ポイント
- 色。ギャラリーの明るい展示照明の下では、深く灰色がかった青に見えます。サファイアより暗く、灰色の強い青です。
- 周りを囲む16個の白いダイヤモンド。オールドマインカットとペアシェイプが交互に並ぶ、エヴァリン・ウォルシュ・マクリーンのために作られた台座です。
- 厚さ3インチの防弾ガラスの円筒の中で、ゆっくりと回る台。
- 近くに並ぶウィンストン・ファンシーカラー・ダイヤモンド。虹のように配置され、中央にウィンストン・レッドが置かれています。
書き起こし (3:26)
回っています。1分ほどじっと立っていると、台がガラスの円筒の中でネックレスをゆっくりと運び、石は片側から、そして反対側から光を受けます。ガラスは厚さ3インチの防弾ガラスです。この青は、サファイアの青ではありません。深く、灰色がかった青で、16個の白いダイヤモンドの輪に囲まれています。重さは45.52カラット。知られている中で最大のブルーダイヤモンドです。
色のもとは、炭素の中にごくわずかに含まれるホウ素で、その量は多くても100万分の数程度にすぎません。そしてここでは決して見られない性質もあります。短波の紫外線を当ててからランプを消すと、しばらくのあいだ、燃えさしの炭のように赤く光り続けるのです。その不気味な輝きが、この石にまつわる数々の物語を育てたのかもしれません。
たどれる歴史は、インドから始まります。石はおそらく、かつてのゴールコンダ王国にあったコッルール鉱山で採れたもので、17世紀にフランスの宝石商ジャン=バティスト・タヴェルニエが買い取ってヨーロッパへ持ち帰りました。1668年、彼はそれを国王ルイ14世に売り、王はそれをカットさせて宝石に仕上げます。フランスではそれを「王冠の青いダイヤモンド」と呼び、のちの書き手たちは「フレンチ・ブルー」と呼びました。
そして、石は姿を消します。1792年9月、国王が幽閉されていたさなか、泥棒たちがパリの王室の宝物庫に押し入り、5日間にわたってフランス王冠の宝石を盗み出しました。フレンチ・ブルーが、その名前のまま戻ってくることはありませんでした。1812年、まさにこの大きさと形の青いダイヤモンドが、カットし直された姿でロンドンに現れ、のちに持ち主のひとりだった収集家ヘンリー・フィリップ・ホープの名で呼ばれるようになります。2005年、スミソニアンはコンピューターを使った研究を発表し、この石が盗まれたフレンチ・ブルーから切り出されたものであることを示しました。
では、呪いは? 1888年にはすでにある新聞が、偶像の目からもぎ取られた石の話を載せていて、持ち主が次々と破滅するという物語は、20世紀の初めにどんどん増えていきました。それらはほぼ間違いなく作り話で、新聞を売り、ダイヤモンドを売るのに一役買いました。1911年、アメリカの資産家の娘エヴァリン・ウォルシュ・マクリーンがこの石を買い、いま目の前にある、16個のダイヤモンドを配したプラチナの台座は、彼女のために作られました。彼女の死後、1949年にニューヨークの宝石商ハリー・ウィンストンが、そのコレクションをまるごと買い取ります。
ウィンストンは、アメリカには王も女王もいないけれど、それにふさわしい宝物はあるべきだ、とよく語っていました。1958年11月10日、この石は彼からの贈り物としてここに届きました。それも郵便で。茶色の紙に包まれ、切手がびっしりと貼られ、「壊れ物」と書かれた小さな箱が、ニューヨークから書留で送られてきたのです。料金は合計145.29ドル。そのうち郵送料は2.44ドルで、残りは100万ドル分の保険料でした。その包み紙は、いまスミソニアンの国立郵便博物館が保管しています。
1997年からは、国立宝石コレクションのほかの展示の隣に、この石のための部屋があります。2025年にはウィンストンの息子ロナルドが、希少なウィンストン・レッドと、40個のファンシーカラー・ダイヤモンドのコレクションを寄贈し、それらはいまハリー・ウィンストン・ギャラリーで、この石のすぐそばに並んでいます。ホープがワシントンを離れたのは数えるほどで、1962年のルーヴル、1965年のヨハネスブルクなどがその例です。それ以外はずっと、この建物の中にあります。ジェームズ・トッドという郵便配達員が、シティ郵便局で茶色の紙包みを受け取り、車でここまで運んできたあの日から。
独立系ガイド · Chiaro
自然史博物館で目にするものすべてに、Chiaro を向けてみてください。
ホープダイヤモンドも、1億4800万点を超える標本のうちのたったひとつにすぎません。隕石でも、ケナガマンモスでも、上の階のミイラでも、昆虫動物園で動いている生きた虫でも、写真を撮れば Chiaro が名前を教え、それがどんな経緯でワシントンにたどり着いたのかを説明します。ガラスの前に立ったまま重ねる質問にも、声で答えてくれます。
出発前に
アクセス
10th Street and Constitution Avenue NW, Washington, DC 20560。ナショナル・モールの北側にあります。入口は2か所で、マディソン・ドライブに面したモール側の入口と、建物の反対側にあるコンスティテューション・アベニュー側の入口のどちらからでも入れます。
最寄りのメトロ駅は、ブルー線、オレンジ線、シルバー線が通るフェデラル・トライアングル駅です。アーカイブズ/ネイビー・メモリアル駅(グリーン線、イエロー線)とメトロ・センター駅(レッド線)からも、少し歩けば着きます。スミソニアンはモールに一般向けの駐車場を設けていません。
チケット
- チケットも、パスも、予約もいりません。そのまま無料で入れます。ただし入口では全員が、金属探知機を使う空港式の保安検査を受けます。
- 荷物は少なめに。クロークもロッカーもなく、館内では三脚、一脚、自撮り棒を使えません。
- 扉は午後5時30分きっかりに閉まり、全員が館外に出なければなりません。ホープダイヤモンドは、閉館前の最後の30分に入る前に見ておきましょう。
- 無料Wi-Fiのネットワーク名は si-visitor で、パスワードはいりません。
公式音声ガイド
館では音声ガイドの貸し出しをしていません。館が自ら制作している音声は、iPhone と Android 向けのアプリ「Deep Time Audio Description」で、目の見えない人や見えにくい人のために作られた、化石ホールのセルフガイドツアーです。このほか、いくつかのホールについては、館のウェブサイトで視覚描写ツアーも公開されています。私たちの5つのスポットも無料で、どのブラウザでも再生できます。館内のそれ以外の展示には、Chiaro アプリをどうぞ。
公式サイト →よくある質問
スミソニアン国立自然史博物館の無料音声ガイドはありますか?
はい、このスミソニアン国立自然史博物館の音声ガイドがそれです。5つのスポットのどれかで再生をタップすれば、スマートフォンのブラウザでそのまま流れます。各録音のすぐ下には全文も載っているので、何もインストールする必要はありません。隕石からミイラまで、館内のほかの展示は、Chiaro アプリで写真を撮れば解説を聞けます。
国立自然史博物館の公式音声ガイドはいくらですか?
お金を払って買うガイドはありません。館は音声機器を貸し出しておらず、館自身の音声は、目の見えない人や見えにくい人のために作られた化石ホール向けのアプリ「Deep Time Audio Description」と、ウェブサイト上の視覚描写ツアーです。入館料もかかりません。
国立自然史博物館のどこにホープダイヤモンドがありますか?
2階の、ジャネット・アネンバーグ・フッカー地質・宝石・鉱物ホールの中にあるハリー・ウィンストン・ギャラリーです。国立宝石コレクションのメイン展示の隣に専用の部屋があり、1階からエレベーターで上がれます。
国立自然史博物館に休館日はありますか?
12月25日だけです。それ以外の日は祝日も週末も、午前10時に開き、午後5時30分に閉まります。閉館時には来館者全員が外に出なければなりません。
自然史博物館に入るのにチケットは必要ですか?
いいえ。入館は無料で、パスもチケットも求められません。入口では金属探知機による保安検査があり、手荷物の預かり所もないので、持ち物はできるだけ少なくしてください。
T・レックスの骨格は本物ですか?
半分を少し超える部分が本物です。化石は1988年にモンタナ州で見つかり、アメリカ陸軍工兵隊から50年間の約束で貸し出されています。ただ、頭骨と肋骨の大半はもろすぎて展示できないため、その部分は復元です。足もとのトリケラトプスはキャスト、つまり型取りした複製です。
ほかの音声ガイド
Chiaro 制作。スミソニアン国立自然史博物館とは関係ありません。