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マルモッタン・モネ美術館 · パリ · 独立系ガイド

マルモッタン・モネ美術館の音声ガイド、
5つのスポット、無料。

このページの5つの録音は、どのブラウザでも再生できます。館には100点を超えるモネのカンヴァスと、世界最大のベルト・モリゾのコレクションがあり、館内のどの作品でも、写真一枚あれば Chiaro が案内します。

Chiaro 制作。マルモッタン・モネ美術館とは関係ありません。

9:41

フェルトル公爵夫人と子どもたちの肖像

マルモッタン・モネ美術館、パリ

0:00 2:28
スポット 1 / 5

5つのスポット · 音声 12 分

5つのスポット、ひとつのルート、
歩く順番のとおりに。

ポール・マルモッタンの邸宅は、相次ぐ寄贈によって印象派の家になりました。このマルモッタン・モネ美術館の音声ガイドは、その寄贈をひとつずつたどっていきます。始まりはポール・マルモッタンが調度を整えた帝政様式の部屋で、1810年にファーブルが描いた大きな家族の肖像画です。次にベルト・モリゾ・コレクションへ進み、新婚旅行中に夫ウジェーヌ・マネを描いた絵と「さくらんぼの木」を見ます。それから地下のモネの部屋へ下ります。庭の下につくられ、1970年に開かれた部屋で、「雪の中の列車」と、最後に「印象・日の出」を聴きます。録音は合わせて10分ほど。一軒の邸宅なので、スポットのあいだの移動は数分で済み、じっくり見る時間を入れても、見学はおよそ1時間です。

私たちはすべての記述を二度確かめました。一度は作品ごとに美術館自身が出している所蔵品解説で、もう一度はそれとは別の独立した資料で。最新の確認は2026年9月25日です。ここの絵は館外へ出ることもあり、「印象・日の出」もその一つです。しかも美術館は展示室の番号を公表しておらず、示しているのはコレクションの名前とモネの部屋だけです。ですから、目の前に掛かっているものがこの解説と合わなければ、正しいのは額のそばのラベルで、間違っているのは私たちです。ひとことお知らせいただければ、ページを直します。

スポット 1 / 5 · ポール・マルモッタン邸の帝政様式の部屋

フェルトル公爵夫人と子どもたちの肖像

フランソワ=グザヴィエ・ファーブル · 1810年 · カンヴァスに油彩、227 × 276 cm

注目ポイント

  • 右側の、東洋風の衣装を着た小さな男の子アルフォンス。口ひげのついた仮面を掲げて、赤ん坊の妹エルフリードを怖がらせています。4人の子どものうち、仮装をしていないのは彼女だけです。
  • 左の年上の2人の男の子は、トルバドゥールの扮装です。羽根つき帽子、切れ込みの入った胴衣、折り返した銃士のブーツと、中世らしさのお決まりが一度に揃っています。
  • 左下の署名と年記、Fs Xs Fabre 1810。この家族がサロンで披露された年です。
書き起こし (2:28)

まず赤から見てください。ビロードのドレス、金の縁取りのある緑のソファ、奥の風景が見えるように引き寄せられた重たい緑のカーテン。そして母親のまわりに、パレードでもするように並べられた4人の子どもたち。カンヴァスは高さ2メートル25センチを超え、幅は3メートル近くあります。描かれたのは1810年のサロンで見せるためで、ナポレオンの帝政が絶頂にあった時期です。

この女性は、ナポレオンの陸軍大臣、フェルトル公アンリ・クラルクの妻です。画家のフランソワ=グザヴィエ・ファーブルはジャック=ルイ・ダヴィッドの弟子で、革命の時代をフィレンツェで過ごしました。クラルクと知り合ったのはおそらくトスカーナでのことで、クラルクはそこでフランスの大使を務めていました。同じサロンにファーブルは、公式の注文で描いた公爵本人の全身像と、1802年にフィレンツェで描いた長男の肖像も出品しています。父親と跡継ぎと、この家族の群像が、そろって壁に並んだのです。

では、左から子どもたちを順に見ていきましょう。エドガー、1799年生まれ。アルチュール、1802年生まれ。ソファの上に立ち、母親に支えられている小さな女の子がエルフリード、ただひとりの娘で、1808年生まれです。そして右の男の子がアルフォンス、1806年生まれ。女の子を除いて、子どもたちはみな仮装をしています。年上の2人は中世の吟遊詩人トルバドゥールの扮装で、アンリ4世風の羽根つき帽子に、切れ込みと紐飾りのある胴衣、折り返した銃士のブーツ。アルフォンスは東洋風の衣装を着て、大きな口ひげのついた仮面を掲げ、妹を怖がらせようとしています。彼女の顔を見てください。この絵の中で冗談らしいものは、そこだけです。

ほかはすべて大まじめで、そこが肝心なところです。美術館は、こうした肖像画をナポレオンがつくった新しい貴族の宣伝として読んでいます。大家族で、息子がたくさんいて、つくられたばかりの爵位をいつでも継げる、という宣伝です。クラルク自身が爵位を得たのは1809年、オランダのワルヘレン島に上陸したイギリス軍を撃退するのに手を貸したあとのことでした。その5年後、彼はナポレオンに退位を迫った将軍たちの一人となり、国王ルイ18世は彼をフランスの貴族院議員に取り立てました。

この絵をこの家に持ち込んだのはポール・マルモッタンです。統領政府と帝政の時代を研究した歴史家で、自宅を帝政様式に改装し、サロンのひとつを飾るためにこの肖像画を買いました。1886年に彼は、いまどきの画家はもう素描をせずに走り描きをするだけ、もう絵を描かずに刷毛でなでるだけだ、と書いています。念頭にあったのは印象派です。その印象派のいちばん有名な絵が、いま彼の庭の下に掛かっています。

スポット 2 / 5 · ベルト・モリゾ・コレクション

ワイト島のウジェーヌ・マネ

ベルト・モリゾ · 1875年 · カンヴァスに油彩、38 × 46 cm

注目ポイント

  • ウジェーヌ本人。カンカン帽をかぶった横顔で、左端に押し込まれています。モリゾは新婚の夫に、窓の外の眺めよりも狭い場所しか与えていません。
  • 窓辺に並ぶ赤い花の鉢。手すりの向こうには白い服の人影と、カウズの海に浮かぶ船。
  • ガラス。右側の窓枠と薄いカーテンは、通り抜ける光として描かれています。美術館によれば、彼女が本当に関心を寄せていたのはそこでした。
書き起こし (2:21)

麦わら帽子の男性は、カンヴァスの左端にぴたりと押しつけられ、横顔で外を眺めています。描いたのは、部屋の反対側にいた妻でした。二人は結婚してまだ数か月です。

ベルト・モリゾがウジェーヌ・マネと結婚したのは1874年12月22日、パッシーのノートルダム=ド=グラース教会でのことでした。パリのはずれにあるこの古い村に、いまこの美術館も建っています。ウジェーヌは画家エドゥアール・マネの弟です。モリゾがエドゥアールと出会ったのは1868年、模写をしていたルーヴルの展示室で、彼女はその後何度も彼のモデルを務めました。けれども彼女は、画家の一家に嫁いだ見習いなどではありません。1864年から官展のサロンに出品していて、同じ1874年の、結婚より前には、第1回印象派展でモネと並んで作品を掛けていました。ウジェーヌは描き続けるよう彼女を励まし、結婚のあとも、彼女は旧姓のまま出品を続けました。

この小さなカンヴァスは縦38センチ、横46センチ。イギリスへの新婚旅行の途中、ワイト島のカウズにあるグローブ・コテージ・ホテルの客間で描かれました。彼女が夫を描いた最初の絵で、彼がモデルになることはあまりありませんでした。

では、彼女が夫をどこに置き、自分の注意をどこに向けたかを見てください。夫に与えられたのは、左側の細い一筋だけ。残りはすべて窓のものです。窓辺の鉢に咲く赤い花、手すり、通り過ぎる白い服の二人、その先の海に浮かぶ船。そしてガラスそのもの。右側の窓枠と薄いカーテンは、眺める対象ではなく、その向こうを見通すための光の膜として描かれています。美術館の読みでは、主題ははじめから人物ではありませんでした。眺めのほうだったのです。

この配置に、もっと鋭いものを見てとる歴史家もいます。1870年代の女性には、人前の場所に画架を立てて描く自由が、男性よりずっと限られていました。だからモリゾは、にぎやかな港の岸辺を、ホテルの部屋の中から、カーテン越しに描き、外を眺める役は夫に任せたのです。絵はそれについて不平ひとつ言いません。ただ、彼女が描くのに使えた部屋と、たったひとつの窓からどれほど多くの世界を取り込んだかを見せてくれます。

この絵を、そして彼女の作品をこれほどたくさん一か所で見られるのには、理由があります。モリゾは生前あまり作品を売らなかったので、たいていの美術館では彼女の絵はわずかしか掛かっていません。ここには、彼女の子孫たちが、世界のどこよりも大きなモリゾのコレクションを遺したのです。

スポット 3 / 5 · ベルト・モリゾ・コレクション

さくらんぼの木

ベルト・モリゾ · 1891年 · カンヴァスに油彩、154 × 84 cm

注目ポイント

  • はしごのてっぺんにいるピンクの服の少女。枝のなかへ腕を伸ばしています。はじめはモリゾの娘ジュリーでしたが、仕上げはプロのモデルでした。
  • 下で麦わら帽子をかぶり、かごを持ち上げて渡している少女。ジュリーのいとこ、ジャニー・ゴビヤールです。
  • カンヴァスの形。高さは1メートル50センチを超え、幅はわずか84センチ。だから目は、かごからさくらんぼへと登っていきます。
書き起こし (2:18)

この絵の上を、目は少女がはしごを登るのと同じように登っていきます。カンヴァスは縦に細長く、高さは1メートル50センチを超えるのに、幅はわずか84センチ。そして中のものはすべて上へ向かっています。青いはしご、ピンクのドレス、葉のなかへ伸びる腕、そしていちばん上に、さくらんぼ。

美術館はこれを、ベルト・モリゾのもっとも野心的な構図と呼んでいます。完成までに2年かかりました。描きはじめたのは1891年、田舎のメジーで、家族がラ・メゾン・ブロティエールと呼んでいた家でのことです。さくらんぼ摘みの季節に、娘のジュリーがポーズをとりました。はしごの上の少女がジュリーです。その下で、麦わら帽子をかぶり、かごを持ち上げているのが、ジュリーのいとこのジャニー・ゴビヤールです。

モリゾはまず実物を前にして描きました。小さな油彩のスケッチと、何枚かの素描です。それから構図をパリに持ち帰り、仕上げにかかりました。そこで困ったことが起きます。ジュリーは十代で、なかなか時間がとれません。そこで母親は、ジャンヌ・フルマノワールというプロのモデルに代役を頼みました。そう思って、はしごの上の少女を見てください。そのポーズとピンクのドレスは、娘の肖像として始まり、見知らぬ人をモデルに仕上げられたのです。

彼女はこの場面を大きな画面で2点描いていて、いま目の前にあるほうが出来がよいとされています。ルノワールはシャン=ド=マルスのサロンに出すよう勧め、彼女もしばらくはその気になっていました。結局、この絵が初めて人前に出たのは1896年、画商デュラン=リュエルの画廊で開かれた回顧展でのことでした。モリゾはその前の年、1895年に肺炎で亡くなっていました。ジュリーは16歳。父親もその3年前に亡くなっていたので、彼女はみなしごになりました。

この絵の二人のいとこは、同じ日に結婚しました。1900年5月、ジュリーは画家のエルネスト・ルアールと、ジャニーは詩人のポール・ヴァレリーと、パッシーでの合同の結婚式で結ばれたのです。二つの家族はその後もパリのこのあたり、16区に住み続け、1934年に美術館が開館したときには、ご近所として開館式に顔を出しました。そしてついにモリゾの絵をここへ運んできたのは、ルアール家の子孫たちでした。1993年の遺贈によってです。

こうして、かごを持つ少女もはしごの上の少女も、いま自分たちの絵が掛かっているこの家と同じ区で暮らすことになりました。最後にもう一度、カンヴァスのいちばん上を見てください。緑のなかに、果実の赤がすばやいひと筆ずつ散らされています。上へ登っていく目が、最後にたどり着くところです。

スポット 4 / 5 · モネの部屋(サル・モネ)、地下階(クロード・モネ・コレクション)

雪の中の列車、機関車

クロード・モネ · 1875年 · カンヴァスに油彩、59 × 78 cm

注目ポイント

  • 機関車の正面にある2つの黄色い前照灯と、ひと刷けの赤。灰色と白でできた絵のなかで、暖かい色はそれだけです。
  • 煙。空のほとんどを埋めていて、美術館はそれを、とりわけ繊細な色調の習作として取り上げています。
  • 右下隅の署名、Claude Monet 75。柵のそばの雪のなかに書き込まれています。
書き起こし (2:12)

灰色の空、灰色の煙、灰色の雪。そして薄暗がりの中から、小さな黄色い光が2つ、こちらへ向かってきます。この絵の仕掛けはそれに尽きるのですが、気づくまでに一瞬かかります。ここにあるほとんどすべては白か、茶色がかった灰色の濃淡で、モネはただひとつの暖かい色を、機関車の正面のためにとっておきました。ほんの少しの赤と、前照灯の黄色い2つの点です。

ここはアルジャントゥイユの駅。パリのすぐ外、セーヌ河畔の町で、モネは1871年に家族とともにここへ移り住みました。ふだん自分が乗り降りしていた駅で、彼はホームに立ってこれを描いています。1874年から1875年にかけての冬、彼はアルジャントゥイユの周辺で雪景色を16点描きましたが、そのほとんどは静かな田園の眺めです。この一枚だけが毛色が違います。主役は機械なのです。

2年後の1877年、モネはパリのサン=ラザール駅を、蒸気と鉄とガラスを、何度も繰り返し描くことになります。美術館はこの絵を、その連作の最初の予告と見ています。どう組み立てているか見てください。右側では柵と葉を落とした木の列がホームに沿って続き、目を列車のほうへ引き寄せます。そして何より効いているのが煙です。巻き上がって空を埋め、どこで雲が終わり、どこから機関車の吐く息が始まるのか、ほとんど見分けがつきません。美術館は、この空の扱いを、とりわけ繊細な色調の習作と呼んでいます。1875年に描くものとしては、とても現代的な題材でもあります。時刻表、通勤、寒いホームで待つ旅行者たち。

この絵の最初の持ち主は医師のジョルジュ・ド・ベリオ、モネを最も早くから支えた収集家の一人です。1876年にこれを買いましたが、あまりに入れ込んでいたので、モネに、自分に売るか、さもなければ手元に置いておいてくれ、と言ったほどでした。愚か者の手に渡るのが心配だったのです。1883年には、画商デュラン=リュエルの画廊で開かれたモネ展に、この絵を貸し出しています。

そして絵はここへやって来ました。この建物でいちばん有名な絵と同じ道筋をたどって。1940年、ド・ベリオの娘ヴィクトリーヌと夫のウジェーヌ・ドノップ・ド・モンシーが、父のコレクションから印象派のカンヴァス11点を美術館に寄贈しました。これがその一点で、「印象・日の出」がもう一点です。そちらを探しに行く前に、右下の隅に目を落としてください。モネはそこに、雪のなかに署名と年を書き入れています。クロード・モネ、75。

スポット 5 / 5 · モネの部屋(サル・モネ)、地下階(クロード・モネ・コレクション)

印象・日の出

クロード・モネ · 1872年 · カンヴァスに油彩、50 × 65 cm

注目ポイント

  • オレンジ色の太陽と、水面にちぎれながら映るその光の筋。美術館によれば、モネは絵を仕上げる段階で、これを最後に加えました。
  • 手前にある渡し守たちの暗い小舟。どれも数筆だけで、これも最後に描き足されたものです。
  • 奥の青灰色の靄のなかに、かろうじて見えるル・アーヴル港のクレーン、煙突、帆柱。
  • 左下の署名 Claude Monet と、あとから書き足された年記72。
書き起こし (3:02)

思っていたより小さい、と誰もが感じます。50センチ×65センチ。青灰色の靄のなかに熱いオレンジの円盤がひとつ、その下の水面にオレンジの筋がひとつ。絵画のひとつの運動が、このカンヴァスから名前をもらいました。

これはル・アーヴル、モネが育った港町の眺めです。1872年11月ごろ、彼はオテル・アミロテに泊まっていて、部屋の窓から、朝早く、南東の外港を見渡しました。探せば、構造が見えてきます。左にケ・オ・ボワ、右には工事が進んでいたケ・クルブ、そして真ん中に、大西洋航路の船をウール船渠へ通す閘門の口。秋の靄のなかに、クレーンと煙突と帆柱が立っています。それから手前を見てください。渡し守たちの小舟、そして太陽とその映り込み。美術館によると、それらはモネが仕上げの段階で最後に加えたもので、絵全体は数時間で描かれました。

その朝は、のちに特定されています。2014年、天文学者のドナルド・オルソンと同僚たちが、太陽の位置、港の潮汐表、古い気象記録、そして絵のなかの煙の向きを手がかりに、1872年11月13日、午前7時35分ごろの景色だと割り出したのです。

名前がついたのは1874年です。公式のサロンから締め出されたモネと仲間たちは、写真家ナダールのもとのアトリエで自分たちの展覧会を開き、モネはこの絵を出品しました。カタログに載せる題名を尋ねられたとき、彼は、これではとてもル・アーヴルの眺めとしては通らないと考え、「印象」と名づけました。保守的な批評家ルイ・ルロワは、風刺新聞『ル・シャリヴァリ』のために展覧会評を書きに行き、ここぞとばかりに飛びつきました。1874年4月25日の彼の記事の題は「印象派たちの展覧会」。侮辱のつもりでした。数日後、もっと好意的な批評家ジュール・カスタニャリがこの言葉をほめ言葉として使い、それがグループ全体の呼び名として定着したのです。

いまあなたが立っている場所の皮肉は、これ以上ないほどです。この美術館は芸術アカデミー、アカデミー・デ・ボザールのもので、それはこの画家たちをサロンから締め出した機関でした。しかも美術館の土台は、彼らを批判する文章を書いたポール・マルモッタンのコレクションです。ところが1940年、ヴィクトリーヌ・ドノップ・ド・モンシーが、この絵と、ほかの印象派のカンヴァス10点を美術館に贈りました。彼女の父、医師のジョルジュ・ド・ベリオは、モネを最初に支えた一人でした。その日から、アカデミーは、かつての敵たちに名前を与えた絵の持ち主になったのです。

この絵がずっとここにあったわけではありません。1985年10月27日、白昼に、覆面をした5人の武装した男たちが美術館に押し入り、9点の絵を奪いました。この絵もそのなかにありました。見つかったのは5年後の1990年12月、コルシカ島の小さな別荘でのことで、絵は1991年に壁に戻りました。最近は、正式に貸し出されて旅にも出ています。2024年の春にはオルセー美術館へ、それから2025年1月まではワシントンのナショナル・ギャラリーへ。

立ち去る前に、左下の隅に近づいてみてください。署名はクロード・モネ、そしてその横の年記72は、あとから加えられたものです。印象派が自分たちの始まりとして数える絵なのに、その絵自身の年は、あとから思い出したように書き添えられたのです。

独立系ガイド · Chiaro

マルモッタン・モネ美術館のどんなものにも、Chiaro を向けてください。

このページは5点の絵で終わりますが、美術館はそこで終わりません。晩年の睡蓮の大きなパネル、ルノワールが描いたモネの肖像、ヴィルデンシュタイン・コレクションの中世の細密画を撮影すれば、アプリがその作品の来歴を、どの一家の寄贈でこの館に入ったのかまで語り、続けて尋ねたことにも声で答えます。

なぜ「印象」という題なの?コルシカからどうやって戻ってきたの?はしごの上の少女は誰?

出発前に

01

アクセス

2, rue Louis-Boilly, 75016 Paris。パッシー地区、ラヌラグ公園のはずれにあります。入口は、かつてポール・マルモッタンの玄関ホールだった、帝政様式の円形の玄関の間です。

メトロ9号線で La Muette 駅か Ranelagh 駅、または RER C線で Boulainvilliers 駅へ。バスは22番と52番が La Muette–Boulainvilliers に、32番と70番が Louis Boilly か Ingres に、63番が Porte de la Muette に停まります。車なら、78 rue de Passy の Vinci Park Passy 駐車場が使えます。

02

チケット

  • 月曜日は入れません。終日閉館で、1月1日、5月1日、12月25日も同じです。火曜日から日曜日は午前10時から午後6時まで、最終入館は午後5時です。
  • 木曜日は遅くまで、午後9時まで開いていて、最終入館は午後8時です。どの曜日でも、閉館の15分前には展示室から人を出しはじめます。
  • 予約は必須ではありません。窓口で買ったチケットは買ったその日だけ有効です。オンラインのチケットには15分刻みの入館時間枠がつき、チケット売り場の列に並ばずに済みます。印刷するかスマートフォンで提示する必要があり、交換も払い戻しもできません。
  • ジヴェルニーにも行きますか? ジヴェルニーのモネ財団(Fondation Monet)との共通券は27ユーロ、18歳未満と25歳未満の学生は16ユーロです。
公式チケット →
03

公式音声ガイド

美術館の公式音声ガイドは受付で4ユーロで借りられます。常設コレクションと企画展を扱い、現在の企画展の分はフランス語と英語で用意されています。ここにある5つの録音は無料で聴けます。100点を超えるモネを抱えるコレクションのほかの絵なら、写真を1枚撮るだけで Chiaro アプリが語ります。

公式サイト →

よくある質問

マルモッタン・モネ美術館の無料音声ガイドはありますか?

いま見ているこのページがそれです。ファーブルの帝政期の肖像画から「印象・日の出」まで、5つの録音がこのページからそのまま再生でき、それぞれの下に全文が載っています。100点を超えるモネを含むコレクションの残りは、作品を撮れば Chiaro アプリが語ります。

マルモッタン・モネ美術館の公式音声ガイドはいくらですか?

入場料とは別に4ユーロです。常設コレクションと企画展を扱い、現在の企画展「風景の歴史」のページには、フランス語と英語で用意されていると書かれています。

「印象・日の出」はマルモッタン・モネ美術館のどこにありますか?

モネ・コレクションとともに、モネの部屋にあります。庭の下の地下階につくられ、1970年に開かれた大きな部屋です。美術館は展示室に番号をつけておらず、この絵はときどき貸し出されます。2024年にはオルセー美術館へ、そのあとワシントンへ渡りました。

マルモッタン・モネ美術館は月曜日が休館ですか?

はい、毎週月曜日と、1月1日、5月1日、12月25日も休館です。それ以外の曜日は午前10時に開いて午後6時に閉まりますが、木曜日だけは午後9時まで開いています。

マルモッタン・モネ美術館の入場料はいくらですか?

一般のチケットは14ユーロ、18歳未満と25歳未満の学生は9ユーロで、どちらも企画展込みです。7歳未満の子ども、障害のある来館者とその付き添い、求職者、教員、美術史の学生は、証明があれば無料です。

マルモッタン・モネ美術館の見学にはどのくらいかかりますか?

この5スポットの見学にはおよそ1時間、そのうち聴いている時間は10分ほどです。館はこぢんまりとしていて、フロアは3つ、モネの部屋は地下にあります。企画展を含めてひととおり見ても、2時間あれば余裕をもって回れます。

ほかの音声ガイド

Chiaro 制作。マルモッタン・モネ美術館とは関係ありません。